2014年5月30日金曜日

Vol.171「道程訛りは人の数だけ」の巻。

五月、花屋さんではもう紫陽花が並びはじめ、そろそろ梅雨かと知らされる。梅雨、その手前のなんともすごしやすく、風さらさらでアコースティックギターもよく鳴り響く今日この頃、いかがおすごしか。

アコーステックギター、そのボディーは木でできてるもんだから、その日の気候なんかで音の鳴り方が変わる気分屋だ。
右手でジャランと弦を撫でる、時には激しく叩いたり、指でつまびいたり、大きくて、くびれてて穴のあいてるボディーに6本の弦が共鳴してギターが鳴く。心が共鳴して潤っていく。頭でなんだかんだと考えることを忘れ、おもむくままにただ共鳴し合う。そんなことを繰り返しているうちに少しずつ景色が見えて、言葉が出てきて、心のどこかから、この世になかった曲が誕生したりする。毎度毎回そうやって生まれてきてくれればいいけど、なかなかどうしてそうもいかず、何年やっても曲作りのノウハウなんてものはないのだなぁと、だからしてできた時の喜びは格別なものがあってやめられないんだろうなと再確認したりして、「きょーくはーどこからくるんだろー」なんつって、コウノトリにお願いしてみたくもなるけんど、きっと心のどこか奥の方にすでにある曲のしっぽに出会うまで、そんなことを繰り返していくんだろうな。

共鳴と書いて思い出す光景、感触があるんだけど、自転車のタイヤのゴムをなくして骨だけの車輪を棒で押してまわして走る競技が運動会であって、はじめはうまく回らなくてタイヤがヨレヨレーっと横にそれていっちゃうんだけど、やってるうちにコツをつかんでシャーっと走れるようになる。うまくいかないときには出来る気がせず、あせって「もうなんだよこれ、やんなっちゃうな」なんておもっていたのが、なんかのきっかけでコツをつかみスイスイいくと、右手に伝わってくる感触もおもしろくタイヤとふたり共鳴し合ってどこまでもいけそうな気になる。きっとちびくろサンボのバターになったトラの気持ち。(ここまで書いてその競技がなんて名前の競技だったか思い出せずにおります。車輪回しだかタイヤ回しだか…、知ってる人いたら教えていただけたらとおもいます)

名前は忘れたけどそういう感触の記憶。できなかったことができるようになって、勝ち誇るものでもなく、自慢するものでもない自分の中の宝もん。たかだか車輪を回すってだけの感触を思い出して、僕は今まで何度も心をホップさせたり、希望をもったりしてるんだから不思議なもんです。
そんなもんだけで人とつながれたり、真っすぐに人生を進んでいけたらとおもうけんども、いろんな障害物があってうまくいかないことがまた夢を見させてくれたり、強くさせてくれたりするんだろうなともおもったりもして。またいつかやってみたいもんです車輪まわし。

で、障害物で思い出したんだけど、訛り。育った場所の言葉のなまり。 こないだ、子供向けのアプリ音楽を作ってる友達より、そのアプリの中で流れる歌を歌ってくれないかとお誘いを受け、歌手中尾に歌えない歌はないだろうと引き受けたのだけど、やってみるとなかなかどうしてあまりなじみのない曲調だったためか、なかなかすんなりOKが出ず、その駄目出しの内容が「なんか訛ってる」とのことでありました。歌が訛ってると言われたのは二回目のこと。一度目はプロデューサーの瀬尾一三さんより吉田拓郎さんの歌をカバーレコーディングした時。瀬尾さんは本家拓郎さんのプロデューサーでもあるからして「拓ちゃんも訛ってるんだけど宮崎の訛りとは違う訛り方なんだよね、もうちょっとこう」と駄目出しを受け、何度もやり直しなんとか克服。今回もまた何度も正規のアクセントを教えてもらい、かなり時間がかかるもなんとかクリア。恐るべし訛り。こんなとこに小さな障害物。

長渕剛さんのトリビュートに参加した時も長渕さんより「お前なんか訛ってるなぁ、出身どこだ」と聞かれ「宮崎です」と言えば「そうなんだよ、宮崎は自分達が訛ってるって気付いてないから直せないんだよな」と言われ、言われてみれば分かりやすく方言バリバリというよりも、言葉自体はかわらないんだけど、アクセントが微妙に違うだけなものが他の県に比べれば多い気がする(便乗)。わかりやすく訛っていればスイッチも変えやすいのだろうけど、言われた通り微妙なアクセントの違いが多いので境目がわかりづらいというのはあるのかもしれない(自己弁護)。それでも田舎にいた頃などは、いざとなればいつでも標準語くらい話せるわい、語尾にさーってつければいいんでしょとおもっていたのだが、東京に長いこと住んで役者の現場などでどうしても直さなくちゃいけない時にも、泣けてくるほどわからなかった。またCMやドキュメンタリーのナレーションなどの時も何度もやり直し。特にドキュメンタリーのほうは、BSのこれまた吉田拓郎さんのヒストリー番組のナレーションだったのだけど、「30才になっても」という一行がどうしても訛ってるようで、何度もやり直した。だったら僕じゃなくてもいいんじゃないかと開き直りたくなる気持ちを抑え、何度もトライし克服。克服するもあてずっぽうで言ってまぐれで当たってる言葉なので実感がまるでない。

何かこう、この言葉にはこのニュアンスってのが自分の中にあって、そこを外れると音楽をやっているのに音程で説明されても直せない。そう、訛り以前にメロディーを音楽的に、ここは一音下げてとか言われても、顎を引いてみたりするだけで音を下げたりすることがなかなかできない。って何をできない自慢してんだろうかともおもうが、不思議再発見だ。

上京してきてすぐ同郷の友達と会ったのだけど、すでに標準語になっており、その生まれたての標準語にどうにもこちらが恥ずかしくなってしまった。また関西の人と話していて、関西弁がうつってしまってる人などをみても、なんだかこちらが恥ずかしくなってしまう。アメリカなどにいき帰ってきた人の雰囲気全体がアメリカ風味になっているのもこちらが恥ずかしくなる。その順応性があったらともおもうのだけど、手垢のついた言葉やニュアンスってのはなかなかとれるもんではないし、その根っこにはそれまで生きてきた道程みたいなものも含まれてるような気もして、その地方単位だけでなくて、人の数だけ訛りはあるんだろうな、自分はもう純粋な地元言葉でもないんだろうけど通ってきた道がある。それを無しにして実感のない伝え方で誰だかわからなくなるのは嫌だなとおもう。であるからして本当は標準語も実感もって話せるようになってバイリンガル、どちらも使いこなせたらいいんだけどね。

どちらにしても冒頭に書いたように曲。アクセントうんぬんではなくて心の訛り、自分にしか書けない歌、今までもそうだったようにノウハウはなく、出そうとおもっても出せない部分、そこをひっぱり出せたらとおもうこの頃です。どちらにしても冒頭に書いたように曲。アクセントうんぬんではなくて心の訛り、自分にしか書けない歌、今までもそうだったようにノウハウはなく、出そうとおもっても出せない部分、そこをひっぱり出せたらとおもうこの頃です。

街のいたるとこにどくだみ草が咲いてます。

515日 渋谷セブンスの楽屋より。なかなかスマホにかえれなっしんぐ。
説明を追加

右から母 ばあちゃん 叔母。宮崎から東京に。
         んで 歌舞伎町男巣
          久々のドラム吉田くん

そして打ち上げの最中若者がセッションをはじめ 便乗して楽しむ我々。


♦独占企画 諭介がお答え致します



■「すごいですね!「くちゃくちゃ」ぐせから、おじさんの幼少期にまでさかのぼり、こんなにも長編ストーリーが思いつくこと。ある意味、その想像力、いろいろ考えちゃうことなんかも生まれながらにしての諭介さんのくせみたいなものなのかもしれないですね。だけど、嫌な気分になったとき、こういう発想ができるとちょっと楽しいなぁって思いました。さすがスターですね。そして、例えば私のことはどんなふうに壮大なストーリーを作ってくれるんだろう!ってちょっと聞きたくなりました()自分のくせって考えてみてもわからなくて、人に指摘されて初めて気づくこともあれば、言われてもさっぱりわからなかったり。私のくせで何か迷惑をかけていることあるのかな、って心配にもなったけど、心配しすぎたり気にしすぎたりするのは悪いくせだと思ってすぐやめました。「メシと私」もまたいつか」(A.T  2014516 17:16
そやった、メシと私書くんやった、またいつの日か。自分てそうよね友達、人が気づかせてくれるもんよね。 


■「その「くちゃくちゃおじさん」の背景にはそんな壮大なドラマがあったなんて!しかもちょっと切ない・・・(笑)それにしても諭介さん、ものすごい想像力!くちゃくちゃおじさんで一本映画ができてしまいそうですね(笑)
でも確かに他人の些細な癖にイラっとさせられる事ってありますね。本人は無意識にやっているのだろうけれど。
たまに電車の中で自分の後ろに立った人が鼻をズルズルっとすすっていたりすると、「鼻かんで!」とポケットティッシュを差し出したい気持ちになることがあります。とはいえ、自分も無意識にやっている何かが誰かのイラっの原因になっているかもしれないので、お互い様なんですけどね。(でも諭介さんにはイラっとされないように気をつけたいです(笑) )」(夕陽 2014517 11:07
あ~やってるわ、鼻ずつつ~!ってやってるわいやはやしかし自分のクセが人のイライラって気にしだすとキリないね。いやはやいやはや。

2014年5月2日金曜日

Vol.170「育ちクセ」の巻。

桜も咲いて、あっという間に散っていって、花粉も飛び散りやんだか、すこぶるすごしやすく新緑眩しい今日この頃、いかがおすごしか。

太陽の光に透かされた葉っぱの緑はメラメラと燃えていてパワーを感じる。目に写すだけでメラメラがこちらにも芽生えてくるような、思い出してくるような気分になってくる。体は老いていくにしても心はなんとやら、季節は春夏秋冬と繰り返し、いろんなことを思い出させてくれてんだろうな。

20年ほど前はこの春の芽吹きだすパワーが苦手だなぁーとおもったりしたもんやけど、上手く共鳴できるようになってきたのか、チュウリップなどの色とりどりの花が咲くのをみては「カワイイやっちゃなぁ」と心がちょいとキュンとしたりして。幼稚園の頃など花の絵を描くとなると、誰かが描いてるのを真似したんだろう、みんな同じなあの単略的なチューリップを描いていたのを思い出す。しかし上から横からよくよく見てみると色と形がなんだか見応えがあって面白い。そしてこのチューリップに対しての「カワイイやっちゃ」な気持ちは、なぜか幼稚園の頃ピンクレディーが好きだった気持ちをも思い出させてくれるのでありました。また、その頃好きな女の子がいたことも思い出す。顔も名前も覚えていないんだけどなんとなくぼんやり、そしてその子の前でオモチャのバンジョーをもって、嬉しくなって弾く真似をしてカッコつけたりしたことをなんとなく思い出し、ちょいと恥ずかしくなったりして。 よく音楽やってるもの同士「どうして音楽やろうとおもったか」なんて話になると「モテたかったから」ってのが大体の答えで、そのたびに「そうかなぁ、いやぁ自分は違う気がするなぁ、もっとこう自分の中の何かをばぁーっと」うんぬんかんぬん、この面倒臭男はいちいち自分は違うと主張していた時期があったが、このバンジョーの記憶からして、やはり自分にもしっかりと、男子としての本能がその頃より備わっていたのだなぁと知らされる。自分の若葉の頃を思い出させてくれる2014年、春です。

そんな今年の春、やたらと腹が減り、前に比べてメシのことを考えることが増えたので今回この連載にて「メシと私」的なものを書こうかとおもっていたところ、違う角度からメシでの出来事があったのでそちらを書きたいとおもいます。

昨日、定食屋さんでカレーを食べているとカウンター横並びで、サラリーマンの方も一人晩酌しながら隣で何やら食べていて、その食べる音が真横でずーっと聞こえてくる。くっちゃっくっちゃっ言わして食べてる。僕はこの「くっちゃっくっちゃ」が苦手で、どうにもイライラしてしまう。

男であるからしてこんなことでイライラしてしまう自分がワイルドじゃないなぁともおもいつつ、イライラしないで~と自分の中で歌ってみても生理的にいや~んなのである。この気持ちわかってもらえないだろうかと、そうだ連載でこのことについて呼びかけてみようかと思いながらカレーを食べた。

思いながら食べたが、それにしても隣の「くっちゃくっちゃ」がはみ出してきてこちらの耳の奥まで入り込んでくるもので、気分がそちらへもっていかれる。「くっちゃくっちゃ」にも元気のあるものと、そうでないのものがあるとおもうんだけど、後者のパターンでどうにも気になる。だからと言って悪いことをしているわけではないので「口を閉じて食べてみてはどうでしょうか」と提案することもできない。きっとこの人は自分でわかってないんだろうなと、どうしたらここまでくちゃくちゃ言わせて食べれるんだろうかと、試されてる気分にもなり勝手にその人の気持ちになってみた。

一日働き、やっとありついた一人晩酌、定食屋のおばちゃんとも仲良くしゃべってるあたり常連さんだ。
きっとそのカウンターの端っこが定位置なんだろう。 家には家族があり、反抗期の娘なんかがいたりして帰っても気を遣わなければならず落ち着かない。
昼間は昼間で張りつめて、家に帰っても張りつめてのすき間、そのわずかな時間、夕暮れ時の、このちょいと一杯が唯一心落ち着ける場所だとすると、本当にリラックスして楽しめる時間なんだろうと、よくありそうなことを勝手に妄想し、だからして育ちそのままの素直な自分が一番心おきなく味をあじわえる食べ方になるんだろうと相成った。

そして、そのおじさんの育ち、幼少期。親は働きに出ていて家に帰っても誰もいないのでずっと友達と遊んでいたい。そこで「最初に帰ろうって言ったら負けね」と友達に提案する。友達はふっかけられたその提案に「よっしゃ!負けたら100円ね」とふっかけ返すが、もうボールも見えないくらい暗くなり随分と時間が経つと、さすがに友達は「だめや、やっぱ怒られるわ、はい100円」と先に帰ってく、「いぇい!」と喜んでみせて、せしめた200円をポケットに入れて「バイバーイ」と友達と別れ、一人家に帰り真っ暗な家の電気をつけて、汗と土で汚れたランニングのまま、電子ジャーにしゃもじをつっこみそのまま口に運んで食べる。昨日の残りの少し古くなった白メシをかっこむ、白メシに飽きると冷蔵庫からのりを出してのせて食べる。遊び疲れて体がメシを欲する。コンセントを抜いて床に座り電子ジャーを太ももに乗せ、抱きかかえるようにして欲するままにかっこむが、行儀が悪いと言われることもないので気の赴くままにメシを食う、疲れ切った体が求めるままに食うメシが何よりうまく、ひたすらにメシ対自分の真剣勝負。誰かがいれば「おいしいね」なんて言って共感しあえるが、一人の台所ではそれもなく、メシをすくう時にジャーにあたるその音へ返答するように、また、自分自身に対してのメシを食う実感、そのうまさの実感、生きている喜びの実感、さらには感謝の表現として身につけたのが音をたてながらの食べ方「くちゃくちゃ」。

今の奥さんと付き合いたての頃などは気も張っているからして「くちゃくちゃ」も所々の「くちゃ」止まりであったが、段々と気が緩み今では全開の「くっちゃくっちゃ」となって奥さんからはもちろん、反抗期の娘からも「くちゃくちゃ言わしてんじゃねーよジジィー!」と怒鳴られ「てめぇー!誰のおかげでメシが食えてるとおもってんだ!」と怒鳴り返せるわけもなく、渋々口を閉じ音をたてないように食べるが、どうにもメシを食った気になれず、実感がわかないまま夕飯を終え、ベランダに出て缶ビールを開けタバコをやり、煙とため息を一緒に吐き出す。

そんな暮らしの中、家庭的な味とおばさんがいて、口うるさく注意されることはないこの定食屋さんは、このおじさんにしてみれば羽を休めるとまり木になっているに違いない。きっと「あの時の電子ジャーの白メシはうまかったなぁ」などとしみじみ思い出しながら隣で「くっちゃくっちゃ」やってんだろうなぁと思うと哀愁すら感じ「いいんだよ、おいさん、おもうぞんぶんやりな」って気分にもなり、自分は自分のカレーに向かえたのでした。

カレーを食べ終え店を出て、今回はなんとか気分をおさめたがしかし、あの「くちゃくちゃ」はどうにかならんもんかなぁと「くちゃくちゃ」について考えたが、これはもう育ちで身につけたクセのようなものであろうから、あまり人にとやかく言うもんでもないかもしれないなぁと思い、いやはや待てよ、たまたま自分は「くちゃくちゃ」が苦手であるが、気付かず自分もやっているかもしれないし、他にもなにか自分でも気付いていない人の領域に踏み入るようなクセや習慣がきっとあるんだろうなと思うと、完璧な人間は無理にしても、気をつけて生きたいなと、色んな育ち方をした人と人の中で生きてるのだから、周りのことをあやかやと言うより、きっと自分が気をつけるとか、変るってほうが早いんだろうなとおもったりもして、よく聞く言葉「人は変えられない、自分が変わるしかない」って言葉を思いだしたりした帰り道でありました。とさ。(おわり)


完全なオフ日。花見がてらに徘徊したどり着いた渋谷の酒屋の自販機。酒屋のおばちゃんは消費税の変更に「お店のもの全部金額をうちなおさなくちゃいけないから大変なのよ-すぐまた変わるのにね-」と大変そうでした。
買ったビ-ル片手にこの自販機の前で飲んでいたら、小学生があちらから順番にお釣りのとこに手を入れ、下の隙間をのぞきこみを繰り返し横にずれてくるのをみて、あ~やったな~となつかしんでると、また一時してあちらからブルーシ-トの先輩が同じことをして、あちらから移動してくる
のをみて身がひきしまったそんな一人花見日。

川っ   

毎週日曜、夕方6時からTVKにて放送のしゃかりき 。一人ぽつりな楽屋。

健さんてやっぱりかっこいいですよ

咲いて咲いてもくもく咲いて

かわいいやっちゃ

毎年恒例の花見客が残していったゴミと桜

長渕ナイト、この日はト-クライブ。ト-クライブってどうすれば成り立つのかいまいちわかっていなかったので、年表をつくったり、十年後の自分へと高校時代の自分から送られてきた手紙を準備したりと真面目な私。写真はそんな手紙にはいっていたテレホンカ-ド。手紙はバカすぎて全部は読めなかったけど、ネタにできたのでよかったです。

15年前その人がいたから道を選び その人がいたから光がみえた
これから その人と 全国にうってでますぜって時に その人はいなくなった
ボッロボロの携帯で、破れたジ-パンでひげ面で酒飲みでかっこよかった もう七才も年下になってしまったけど、
一年ありがとうございました。今年もよろしくお願いします、と宣伝担当に手を合わせに所沢へ。

喫茶店ぶ~ふ~う~がなくなった下北沢
駅がかわって やはり変わっていくが ここは残っていただきたい一龍。
ニンニクそばが思ひ出の味。





♦独占企画 諭介がお答え致します


■「スマホにしちゃうんですね…中尾さんにはパカパカでいて欲しかった!!
まわりにLINEしようよと言われつつ抗っています(*^^)v私はもちろんパカパカです。
真逆に進むべくデコメやめて(*^_^*)顔文字復活です!
ただ、いちいち携帯を気にするのが嫌なだけなんですけどね!」(匿名 2014415 23:32
なぬっ、正直グラグラしてます。やはり時は今ではないのだろうなとおもったりして、こんなことでグラグラする自分が情けなし。ラインやろうって誘われたことないなぁ~結局花見も誘われなかったな~今年も。

■「諭介さんの天邪鬼なサルの部分、笑いながら読みましたが、頑なにパンって念を押すところで、ちょっと面倒くさいかもって思いました(笑)。だけど、それでこそ諭介さんって思うところもあって、いつまでもパンと言ってて欲しいなとも思います。そういう私は、携帯を使い始めた頃は一切使わなかった絵文字を今では信じられないくらい乱用していますし(笑)、絶対しないと思っていたネイルも今は楽しみになっています。考えたことはなかったけど、いつの間にか受け入れた自分の中になかった新しいものだったんだなぁと思いました。だからきっと自分の中でバケットを受け入れられるときが来ますよ。って、正直私も言いませんけどね(笑)。あと、新しいものにいちいち抗う自分が嫌いじゃないっていう諭介さんが私も嫌いじゃないです。今月もパソコン作業頑張ってください。」(A.T 2014416 17:13
そうなんだよね、受け入れるとすんなり慣れちゃうんだよね、携帯を持つことも何かをなくしていくんだろうなと涙ぐんだくらいだったのにね。今となってはどこいくのももっていくもんね 

■「初コメントです(*^^*)
つの頃からか「待ちぼうけ」や「すれ違い」が無くなりましたね。デートや飲み会などに行けなくなったり遅れそうになれば、メールですぐに相手に連絡できる。本当に便利な世の中になりました。でも、思春期の頃に味わった、待ち続けるせつなさ、やっと現れた彼を見た時の胸踊る気持ちは、今でも忘れられません。時々、携帯の無かった時代に戻りたくなります。スマホも今さら手放せませんが…
 中尾さんは着実にパソコンと仲良く出来てているご様子。私は務め先の病院が今でも紙カルテなのですが、自分は電子よりペン書きがしっくりします。やっぱり、手書きの字って人柄が出るし、あったかい感じがします。
 ズボン、確かに聞かなくなってきましたが高齢者の多い我が国では、必要な単語な気がします
」(アリンコ 2014416 21:46
そうや、あの待ってる時のドキドキやらね、あの感じは今はないよね。もう戻れない文明の進歩やけど、どっちも知ってる我々はなんだか得してる気分にもなったりしてね。今は時々携帯忘れたりすると、心細くもあるけど、その時の何にもなさを感じたりもできておもろいね。 

■「諭介さんがパソコンとかスマホなんて衝撃的!(笑)
私はどんなものでも壊れるまでとことん使うので今使ってるガラケーもまだまだ使いますよ!
時代がデジタル化されていくのは便利なようで案外面倒。アナログなものに温もりと安心感を覚えるのはやっぱり昭和の人間だからでしょうか?
そして私もかなりの天邪鬼なので人と違うことをやってはみ出しがち。でもそれは周りが勝手に決めたことなので私は私基準でいきたいと思いながらも仲間外れにされるのは嫌だなあって思う面倒臭女です」(夕陽 2014419 11:13
仲間外れっていやよね、あ~あったな~無視とかね。あれ嫌やな~ってでも仲間外れにならないためにだけ生きてるわけじゃないものね、バランスなんだろうけどね。携帯衝撃的とまで言われるとかなりグラグラが増すわ、リ-リ-リ-バック!や。でもグラグラするってことはやっぱり今じゃないんだろな。このもうスマホにしよう、いややめたってのをなんども繰り返してるため、弟に話すと本当に嫌な顔をして「またその話け、知らんわ」と言われるほどに。 

■「おもしろいお風呂ですー!新しい習慣と出会った時、自分はシャボンの中にいるようなぼァーんとした感じになります、なんとなく包まれていきます、、抗う。。中尾さんに強さを感じるのは、そんなふうにエネルギッシュにこだわりの自分を持っていらっしゃるからなのかなと思いました。p.s. 相棒クサバさんの好きなとこはどこですか?」(たかの 2014424 20:06
ん~なんやろ、一言じゃいえんけど、こんなに長いこと一緒にいるのに今だにミステリーな部分があるとこかな。あとバファリンの半分は何とかでできてるるってやつのなんとかでKのほとんどができてるってとこかしら。