2014年1月31日金曜日

Vol.167「2014年1月のあっという間を振り返って」の巻

冬ど真ん中だというのに暖かい日が続いてます。冬将軍が余裕をこいてさぁそろそろ本気だすかとニンマリしているのが目に浮かびます。おっかない。きっと今年は雪がたくさん降るんじゃないかしら、となんの根拠もなく中尾天気予報士が言っています。

一ヶ月前、「きっとあっという間に年を越し、気がつけば1月も半ば過ぎだぁ、あっという間だなぁ」とか言ってるんだろうなぁなんておもっていたけど、ほんとにあっという間だなぁと実感しているこの頃、いかがお過ごしか。

とはいえその時間の中でいろんなことがあったはずで、今回は年を越してからのあっという間を実感するべく、ノンストップであっという間に書きあげてみようとおもう次第です。ノンストップでといちいち書いたのは、いつも頭でまとめて考えながら書いているところを今回は蛇口出しっぱなし、思いついたことをそのまま書いてみようとおもったからです。

そう、大晦日自分は吉祥寺にて中尾と草場として去年最後のライブを遂行しライブ納めをさせてもらいました。今年はこの中尾と草場にて音源を制作できたらとおもってますのでできましたらぜひ聞いてもらえたらとおもいます。

そうそして、ライブが終わり、自分はTVKテレビ神奈川へ行く。画家であるキンシオタニ氏の年またぎスペシャルに出演するべく18時にテレビ局へ入り楽屋へ。キンさんと話をしながら打ち合わせ&リハーサルの時間を待つ。と、ここでキンさんのことについて少し→キンさんと初めて会ったのは確か7,8年前だったか代官山か青山のライブハウスでのブッキングライブ(ブッキングライブとはライブハウスのブッキングマネージャーの方がこの人とこの人をぶつけたらおもしろそうだとか、こんなイベントにしたいからこの人達を呼ぼうと行われるタイバン型のライブであると認識しています)。その出演者の中にキンさんがおり、ライブ当日自分が歌い、キンさんが絵を描きその模様がスクリーンに映し出されるといったシステムで非常におもしろかった。またこちらも即興で歌い、あちらも即興で絵を描くという、少し前から言われてるコラボレーションというやつでまた僕はキンさんとの波長を楽しんだのでありました。 それからそんなことが何度かあり、井の頭公園で毎週露店で絵を売ってると聞き、ニックバッカーズのジャケットを描いてもらいたいなとおもっていたので直接公園に行きジャケットをお願いしたのでありました。また別日に「絵が出来上がったからこの日、この場所にとりにきて」と連絡をもらったのがキンさんの個展会場で、行けば何十人ものお客さんの前でキンさんが絵のパフォーマンスをやっており、ほどなくして、それではと僕の名を呼びステージに呼び「それじゃ即興でなんかうたってもらおう」とあらかじめ用意されてたギターを渡され、僕はドッキリをしかけられたのでした。「じゃ、お題をみんなからもらおう、三つもらおう」と言いだし、なかなかふっかけてくれるじゃないかと自分も楽しませてもらったのでした。そんなこともあり、それからキンさんのライブイベントでも遊ばせてもらうようになったのでした。キンさんは絵をサラサラと描くもんで、自分でも描けそうなのにそこに絶対描けないセンスみたいなもんがあって不思議になる。人の名前を書いてそれが人の顔になっていくパフォーマンスがあるのだけど、身の程知らずの自分はライブ中などに挑戦させてもらったが、やはりうまくいかずまた不思議な人だなぁと思わされたのでした。一緒に酒のんで朝までなんてことはないけど、路上の感覚というか、蛇口を出しっぱなしにしている感覚というのか、うまく言えないけどキンさんとはそんな感覚を楽しませてもらってます。

そうそして、話はもどりリハーサルを終え11:45から出ずっぱりの2時間15分の生放送をキンさんと終え会議室にて軽く打ち上げ。 打ち上げ会場には落語の壇上が設けられていて、共演した立川晴の輔師匠のサプライズ小噺などもきけて楽しく過ごさせてもらい、自分は始発の飛行機で宮崎に飛ばねばならなかったのでお先に失礼し羽田空港へ。

羽田につくと1時間ほど時間があったので、みんなそうしてるようにロビーの椅子に横たわり仮眠をとることにした。と、すぐに「ゆうすけ!」と呼ぶ声がしたので、知り合いかと起き上がるとまったく知らない人がまったく知らない別のゆうすけを呼んでいて、なんだ違うゆうすけかとまた横になると、自分の横の横あたりにいた、これまた知らない人が「ゆうすけって俺のことかとおもったわ」と隣にいた知らない人と笑っていたので自分は内心「君もゆうすけか、僕もゆうすけなんだ、ってかこのエリアゆうすけ率高いな」とおもい、ここにまったく知らないゆうすけ同士が三人もいる奇跡、自分しか知らないこのゆうすけ率を誰かに伝えたくなり、隣の隣のゆうすけに「僕もゆうすけって言うんだ」と伝えたくなったが、さすがにそのあと気まずくなるだろうなとだんまりをきめこみ。そうだこんな時のツイッターやブログでないかと、なんて呟けば伝わるかと考えてるうちに眠っておりセットしてあった携帯のタイマーにおこされ飛行機に乗って宮崎へ。(このペースで書いていくとかなり長くなりそうなのでコンパクトに)

そう、そしてそして、宮崎空港へつきそのままテレビ宮崎へ。 こちらでは高校時代活動していた漫才をこれまた生放送にて。相方の誠人と10:00より楽屋にて漫才の練習。と書いて「そんな直前の練習で何年もやってなかった漫才ができるのか」とおもう人もいるかもしれないが、自分もそうおもい不安だったので事前に練習していた。年末、誠人は宮崎に長期滞在していて東京で会うことができなかったので、誠人が脚本演出を手がけてる劇団ぺテカンの主宰で実質今の誠人の相方、ハマに練習相手になってもらった。 池袋のカラオケボックスに二人で入り稽古。何度も合わせてテンポを合わせてく。その作業が懐かしくもおもい、また楽しかった。ひとしきり練習したあとにさすがのIT時代、スカイプにより今度は宮崎の誠人と合わせるも電波のズレかテンポ感がいまいちつかめないところもあったけど、ハマがこれまた間に入ってくれテンポ感の通訳みたいなこともやってくれ、なんとか感じがつかめるようになった。  

であったので、事前の楽屋での稽古もスムーズにいった。が、どうしても何度やってもすんなり出てこないセリフがあった。最後に自分がつっこんで終わるのだが、ネタを書いた誠人のこだわり、最後は宮崎弁で締めたいとのことで「いいかげんにしろて、どうもありがとうございました」とあったが、「しろて」がどうにも自分になじみのないニュアンスだったためか何度やってもすんなり出てこなく、そこまでいいテンポできているのに一旦頭の中でなんだったけなとなって間があいてしまって体に入らない。
本番はどうにかなるだろうとおもったが、心配なのでそこばかりを繰り返し唱えて体に入れる。

本番が始まり高校時代に高校生漫才コンビとして出させてもらっていた頃の映像が流れたりして、「ぎゃーはずかしー」とかやりながら、いよいよ漫才のコーナーになった。漫才はスタジオを飛び出しテレビ局の玄関からの中継だった。幸か不幸か目の前はテレビカメラしかなく観客のいない状況で、うけてるんだかうけてないんだかわからない状況だった。22年ぶりの誠人との漫才、その頃よく出させてもらっていたテレビ局でまた二人で漫才をしているのが楽しかった。お互い違う道に進んだもん同士がまたこうして遊ばせてもらい贅沢な経験させてもらってるなぁとおもった。だがしかしテンポよく続いた漫才の最後、心配してた所がやはり出てこなくて、とっさに「いいかげんにして」と、なんだか中途半端になってしまったのだけが悔いがのこった。反省しても次につなげる場所もないのに、というかツイッターの141文字目のごとくその言葉だけ出てこなかったのが不思議だった、容量オーバーだったんだろうな。

そんなこんなでお昼の生放送も無事終えて、大晦日から続いた三連戦が終わった。夕方から番組の打ち上げとなりようやく元旦がきた。体の疲れもあってかすぐに酔っぱらったが、二軒目にもいき、さすがの元旦やってる店も少なく狭い立ち飲み屋で誠人とスタッフと3人で飲んでると違うスタッフなどもやってきて、元気なもんでギターだしてみんなで歌いだしたりしてヘロヘロになったが楽しい時間を過ごした。楽しい時間は竜宮城か、浦島太郎はこういう時の戒め話か、あっという間に時間がすぎてとっくに帰りの電車がない時間となっていて誠人と二人で安くボロボロな旅館みたいなホテルに宿泊。畳の部屋に二人布団を敷いて、この3連戦の最後に元旦から男二人でオンボロホテルに宿泊といういいオチがついた。なかなかおもしろい元旦ではあったが翌日は午前中から親戚の集まる予定があったので朝早く起床し、2時間ほど電車に乗って実家に帰る。

親戚で集まると、高1と中3の姪っこはテレビで漫才をみたらしく「いいかげんにして」と自分の間違えたツッコミを真似て「オカマみたいやった」とゲラゲラ笑いながらバカにしてくる。さすが同じ血が通っているだけあってかその個所の違和感を敏感に感じたらしく、弱った生き物にこれでもかと食らいついていくピラニアのごとく何度もマネしてはゲラゲラと笑っていた。くっそーともおもったがその敏感さをたのもしくも感じた。結婚したもの、子供が誕生したものと親戚が増えてわいわいと、前夜の酒抜けきらぬ間に昼からビールだ日本酒だとやり、一通り落ち着くと姪っこが部活でテニスをやっており自分もテニス部だったことがあったと前に伝えてあったので、ラケットを持参してきており、近くの広場でみんなでやることに。あんなに小さかった姪っこが今では大きくなったものの、やはり負ける気がしなかったのだがさすが現役、負けて姪っこの成長を感じる。

そんなこんなで夕方からは友達家族との集まり。4家族の子供二人ずつでワーワーギャーギャー。その中の子供の一人S太マン小学低学年が最近将棋にハマっていると知っていたので対戦することに。
こういった場合、自分のほうが大人であるのでハンデをあげたりするものだろうが彼も男、最初からそれではプライドが傷つくだろうと同じ条件でやることに。またこのような場合、勝った後が大事で、自分は大人であるので大人気なく喜んだりすることはせず、何が勝敗を分けた原因だったのか、どこが分かれ道だったのかを一緒に考えて教え彼の将棋の上達になるようにと、大人としてそこまでシュミレイトしていざ試合開始、開始すると彼はちゃんと考えてんのかと思うほどのテンポで駒を動かしてくる。きっと何も考えてないんだろうなと思ってると案の定、王の次に大きな駒「飛車」を無防備な場所に置いたので、これ大人として勝負の厳しさを教えるべく待ったなしで黙ってとってもよかったのだが、さすがに始まったばかりで戦意喪失されてもこまるので一回だけお情けで教えてやろうと、なるべく恥をかかないようにと「これがあるからそこに置いたら取られちゃうよ」とこっそり教えてやった。教えてやった瞬間であった、彼は半ば怒り気味で「わかっちょるって!」と返してきたのである。あいたた早くもヤケクソか、わかってるならいい、ならば遠慮なくいただきますと彼のその重要な駒をいただいた。それからすぐ、何手か後、気がつくと盤上の自分の駒が逃げ道を失っていることに気付く、いや自分で気付く前に彼がボソっと「勝った」と呟き、それはないだろうと逃げ道を探すがやはりなかった。これはイリュージョンかとおもうほどあっという間に自分は負けていた。あれ?と不思議におもったが何度確かめても負けていた。あれ負けた!とおどけてみせたが内心不思議であった。もちろんどこで勝敗が決まったかの大人シュミレーションのことなどやる余裕もなく、「もう一回やろう」とお願いをしていた。そして2回目も負けた。これはもう認めるしかないと「いやぁすごい強い」と素直に驚き宴に戻った。が、どうにも時間が経つにつれきっと酔っていたからだなどと言い訳じみた自分がでてきて、時間をあけてもう一度対戦をお願いし対戦した。そして3連続で負けた。参りました、とその後自分は電池が切れてブラックアウトしてきたので「体力の限界っ」と、せっかくのみんなとの集まりだというのに帰る時間までぐっすりと眠ってしまった。まさかのまさか、この忙しい正月の最後に小学校低学年のS太マンにノックアウトされた形となった。いやはや子供っていつまでも子供じゃないんですね。大人のおごりってよくないですね、とテニスと将棋でそんなことを教わった正月でありました。とさ。

2014年1月のあっという間の中にはまだ、元オータムストーンの菅原君との再会があったり、番組の収録があったり、恒例の千葉でのライブがあったり、久々に下北沢フォークソング部が開催されたり、新年会がいくつかあったり、2月9日ニックの日に向かってのあれやこれやがあったり、明日は久々に平塚でのライブだったりで次から次におもろい経験させてもらっとります。

次から次にのこの感じ、忙しい忙しいと言いながら自分は嫌いじゃないなとこの一カ月で再確認した次第です。
これに付け加え今年はどこそこで場所やタイミングにこだわらず、全ての道は日比谷へつながってるんだと、とにかく歌を広めるべく歌っていこうとおもってますので、どこかタイミングがあった時はぜひとも観に聞きに感じにきてもらえたらとおもいます。 2014年今年もこの場所を、歌、ライブをどうぞよろしくです。      



去年末 一年間お疲れ様でしたとギターの手入れをして出てきたホコリと弦の切れっぱし。

んで大晦日 TVKに入り

終了し打上げではお餅やかれぜんざいなどがふるまわれ

んでキンさんとお疲れ様でしたの一枚

いやはや終了してもサプライズでお疲れ様でしたになれない晴の輔さん。
真打ちになったばかりだということで、元旦からえんぎのいいもを見させてもらいました。

そして打上
右が共演したアナウンサ-の児玉くん。
聞けば高校時代に先生が「インザス-プの中尾を教えたことがある」と授業中に聞きCDを買ってくれたとのこと。
その先生が誰かと聞き恩師池田先生であることがわかり
「宣伝ありがとうございました」と電話。こんなとこでつながりが。

そして深夜早朝、朝一番の飛行機に乗るべく羽田に移動し宮崎へ。

そして楽屋で稽古 稽古前、電話中の誠人。

そして高校時代、出演させてもらっていたころからお世話になってるアナウンサ-南出さん。
というか子供の頃からテレビで見ていてちょいとミ-ハ-心に火がつく宮崎の有名なアナウンサ-南出さんです。

終電がないことにも気付かず二次会で気持ちよさそうにギターを弾く誠人とプロデューサーの小倉さん。竜宮城にて。

そしてお店の壁に漫才コンビとしてサインを書く我われ浦島ん。
その後終電ないことに気付き、街の中でどうしようかとボーっとなったふたり。

朝早く宮崎からふたりで延岡に向かう電車の車窓から

親戚で集まり

ひとしきりのんでからのみんなで近くの広場というか駐車場でテニス。

んで友達家族の集まりにて 将棋に敗れ、電池が切れ就寝。

んで、東京戻り 駅でボブディランのポスターみてまた気が引き締まる。


♦独占企画 諭介がお答え致します


■「私も先日、インザスープのアルバム、シングルを順番に聴いていて、当時足を運んだライブでの出来事、一緒に騒いだ友達、あんなことやこんなこと・・・色んなことを思い出して胸があったかくなったり、ちょっと切なくなったりしました。音楽って聴くだけでその頃のことを思い出すからタイムマシンみたいですね。

遅れましたが、あけましておめでとうございます。今年も振り返ったら諭介さんの音楽と嬉しい思い出がいっぱいの一年にしたいです。どうぞよろしく。」(夕陽 2014116 10:22
曲の中にそれぞれに思い出があるのがおもしろいね、音楽って。うん、タイムマシンみたいよね。最近テレビ出たりショッピングモ-ルで歌ったりしてみて歌で僕がここにいるってことを思い出してくれる人がいることを実感したりして、どんどん外に出て歌いにいこうとおもう今年です。明けましておめでとう。今年もよろしくね。 


あけましておめでとうございます。と言うにはもう時間が経ってしまいましたね。諭介さんは「あーもう1月も半ばかぁ~」って思っている頃でしょうか()諭介さんの中にある川という存在が普遍的なものであるように、私の中では諭介さんの歌は普遍的です。15、6年前インザスープに出会った頃聞いていた曲を今ライブで聞いても心が動くのは、音楽のすごいところでもあるし、今になって気づけた諭介さんのすごいところの1つなんだと思います。普遍的なという言葉には“いつの時代でも当てはまる”という意味もあって、流行廃りに関わらず、諭介さんの歌ってそんな感じだなって思ったりします。随分長くここにあるので、これからも空気や光のように自然とそこにあり続ける歌であって欲しいし、アルバムを作る話も聞いたのでそういう歌が増えるといいなと、今年も応援しています 」(A.T 20131216 17:13
うれしいわ、ありがとう、そして一月も半ばかぁ-っておもっててびつくり。
今年は何かしら必ずや音源出すんでまたいろんな景色を焼きつけてもらえたらとおもうわ、今年もよろしくね、明けましておめでとう。


■「普遍的なものといえば、私は川柳をやっていますが、習い始めの頃先生に「後世に残るようなものを書いてください」と言われました。軽い気持ちで始めたのに、すごいこと始めちゃったなーと思いました。面白いですけどね。先生はそのためにはカタカナは入れない方がいいとのことでした。
普遍的なもの、中尾さんに負けないように頑張って作らねば。
それではアルバム楽しみにしていますね (みぃ 2014124 18:49
へ-おもしろい。先生もそう言うこと言うのね。カタカナね、へ-。そういえばそうかもなっておもうとこもあるわ。普遍って、未来と過去と今に線を通していく作業かもね。