2011年1月31日月曜日

Vol.132「灯篭〜一曲々」の巻


2011年始まった。さみーさみー冬です。そろそろ雪が降るかもしれないとのこと、東京は雪が降ると、さみーのと暖かいのを繰り返して春になるイメージがある。

雪がくると春がくる。もうすぐかもね、はる。いかがおすごしか。

今回は2010年にニックバッカーズで出したミニアルバム「灯籠」に沿って書いてみようとおもう次第です。つくった歌についての詳しい解説やなんかは、なかなか難しいもんがあるので、漠然と書けたらとおもっています。

1曲目「くじら」
パオーン! それはゾウですが、漠然とそんなでっかいイメージ。
くじらってなんかいいなとおもった。海の深いとこでゆらゆらでっかく泳いでいて、いっきに垂直に口をあけて大量のエビやなんかを飲みこむべく、海面へ上昇してくる映像が頭にのこってて、なんかかっこいいとおもった。

東京の街というか、大勢、人が集まってる街ってどこも同じような街になってる印象がある。ビルは上に上に高く高く、これでもかってくらいひしめきあってて、角はかくばって壁も道路も建物もみんなツルツルしてる感じや。

好きで出てきた、そんな街の中で、自分の心までそんな風になってきてる感じがした。
やってきたことで身に付けたノウハウみたいなもんで、事が進んでいく時にツルツルな感じがする時がある。大勢、人がいるんだから、やっぱり共通言語みたいなもんが必要になってくるんだとおもう。常識について、流れについて、芸術について、幸せについて、恋愛について、音楽についての暗黙の共通言語。それが誰かにとって便利だったり、前例があるから分かりやすかったり、こういうもんだろうってなぞってく感じ。
本当は一人一人全然違うのがあたり前だし、日常生活、ツルツルの上で、暮らさせてもらってるけど、何かが誕生する時って、へその緒はそんなとこを飛びぬけたとこにあるとおもう。「音楽をやるのに音楽をやっていてもしょうがないっぺ」っておもうことがある。音楽をやってるんだから音楽をやってるでおっけーなはずなんだけど、なぜかそうおもう自分がめんどくさくなる。

なんというか、自分の思っていることが間違いであっても、勘違いであっても、そんなことを含めて、時間やら場所をこえて、きっと同じようにめんどくさく生きてる輩がどっかにおるかもしれないとおもったりした。そんで単純にこの日常のアスファルトをひっくりかえして、そんなくじらがおったらおもろいなとおもったわけです。


2曲目「情熱のパレード」
これは、語り口調になってるが、はじめはメロディーもあった。なんか今一つびしっとこないもんで、みんなでぶっ壊した。なんとなくのテーマがあったので、それをもとに、レコーディングの最中にできた。考えると頭が閉じこもってしまいがちなので、基本はありつつも歌いだしなんかは、勢いでべロンとでてきた。それを何テイクか繰り返し、出てきたものをみんなでまとめてできた。バンド全員でしぼりだしてできた感じやった。
ずっと前から、はじめてギターを弾いた時のことを歌にしてみたいなとおもってた。

高校の中庭で、音楽室のガットギター、友達に教えてもらった。
あんときの感動。風景を今も思い出す。
ギターにはコードってのがあって、それを3つくらい覚えれば弾けるようになるってのもすごくびっくりしたが、おしえてもらったGのコードを鳴らした時の感動。あん時の感動の勢いのまんま今まできてるってのは、よかったのかわるかったのか、なんかおもろいなぁーとおもう。

それさえあれば無敵ング的な、どこまでもいける的な、感覚。それは目に見えないもんだし、手で触れなくて、不確かなのに、もう絶対的というか。
若気のいたりとか、勘違いってやつなんだろうけど、どこまでもいけるってのがあったから、んじゃあ、いっちゃえとなって、友達と二人でヒッチハイク。「お金いくらもってる?」となって、まずは遊園地にいったり、のんだりして、二人の有り金を全部使い果たしてからの旅。ギターと自分たちの歌だけの旅。

あれからいろんなことを通り過ぎてきたし、知りもしたけど、基本、いまだに自分を動かしてるのは、あの不確かだけど、絶対的なものってのがおもろい。


3曲目「水に浮かぶ月」
月って、なんか見てしまう。きれいだなぁもあるやろうし、あやしぃもある、時々によって僕にはいろいろある。 海の満ち引きは月の仕業なわけでしょう、これなんかも摩訶不思議よね。人に引き寄せられたり、触れなかったり。そんなどうしようもない気持ちってあるね。実家に帰った時の月がすごくて、もらった歌です。


4曲目「祝子川」
「ほうりがわ」。インザスープでも録音したけど、ニックバッカーズでも録音した。
何曲かその時間と時代と掛け合わせて録音してみたいとおもう曲があって、その中の一つでありました。これはまず僕が弾き語りで録って、それを聞きながらみんなが絵を描いていった感じです。揺れたり、早くなったりする川に沿って演奏が進んでいくのも聞いてもらいたいとこです。


5曲目「アカリ」
「生きててよかったってことが 時々ある」ってギターを弾いてたらでてきた。
こんな感情になったことがあったから、そんな感情からもらった曲や。

手放しで「生きててよかった」そうおもえることなんてほとんどないし、感謝だけでいつもいられるわけでもない。
やっぱりそれは時々や。けど必ずある。そんな風に思えてる時のことを幸せっていうんだろね。
でもどっか、そんな気分も忘れてしまう日々が来るんだろうと思ったりして、なんか残しときたかった。完全に満たされた気分が永遠に続くなんてありえない、乾きが永遠にまったく潤わされないこともない。時々、必ず出会える感情が愛しくおもえた次第です。

それはやっぱり、ライブの最中にガーっときたりする。メンバーと音を鳴らして、一つに向かってガーってなる時なんて、奇跡的な何かに包まれたりする。人と人だから面倒くさいこともあるし、個人的な不安やらなんやら、そんなもの全部吹っ飛ぶ一瞬てのが、僕の場合、やっぱりバンドをやってると、そういう感情にさせてもらったりする。溢れる何か、できればいつも、いつでもそんな気持ちでおりたいもんです。人に対して、疑いも恨みも、見返りもなく、「ありがとう」とかそんな、あったかくて、溢れてしまうものだけで生きたいもんです。きっと生きられないことはないんだろうね。んが、まだまだヨワッちぃもんで、せめてそんな気分が自分にも、(きっと誰にでも)そう思えることが一瞬でもあるっちゅうことを確かめたり、思いだしたりできたらとおもう曲です。

そんなアカリの入った籠(アルバム)っちゅうわけで灯籠とさせていただいた次第です。うむ、分かりやすい。
以上「灯籠」一曲ずつの一人インタビューでありました。

明日は雪になりそうな夜、ぎゅっとなって春に咲くのを想い描いたりしてる蕾の気分。
は~るよこいっ は~やくっこいっ

また来月~。    おわり。


賀正ブ-ツ。
みがいたブ-ツが俺の門松さ。
そんなことをおもいながら パシャリ。
新たな気分であるいてきましょう2011や。

 龍と海と。

一つのイベント事に向け、バンドのメンバー以外で
こんなに共に時間とアイデアを費やしたことないね。
一曲を作りあげてるからね。
バンドのメンバ-以外との競作もおもしろし。

株。株の上に乗って、木になりすます。

ひしゃく。

つるつるした街
冷たい空気の中
ひしゃくが落ちてた

神社もお寺もないし
業者さんもみあたらない
誰のためでも
何のためでもなくなった
ひしゃく が落ちてた

朝をまきおわっただれかが 忘れていったんだべ
明日の朝はどうするべか

あ- ひしゃくが落ちてる
一人ぼっちが街中に溢れだしちゃってる
あ-ひしゃくが落ちてる
おもろいわ

誰のためでも なんのためでもなくなった
ひしゃくがおちてるわ

朝をまかれた街がキラキラしてるわ
目的や約束や情報や競争や残り時間なんかで
擦れて磨かれて
こうあるべきだと
整理された
つるつるの街によ

なんのためでもなくなった
ひしゃくが おちてるわ


2011年1月7日金曜日

Vol.131「2010年12月、2011年へ」の巻

2010年もあと僅かというか、あっという間にもほどがあるように感じるがなぜだろうか。毎年この「あっという間」というのには少しの抵抗を感じながらも使わざるえない。

あっという間というと何事もなくスムーズに事が過ぎていったようにおもうが、1年を思い返してみれば、そんなことはなく、頭悩ませたこと、はじめてぶちあたったこと、どうしようもないこと、感動したこと、大笑いしたこと、色々とあったのだが、過ぎてしまえば「あっという間」という感覚になる。

何年か前のこの連載でも書いたが、『年とるたんびに「あっという間」感が加速するのは、物事に対して慣れていくからだ』的なことをどこかで読んで、なるほどとおもったことがある。


慣れていく、繰り返しの中で人間の成長なんかもあるのだろうけど、それもありつつ「あっという間」の中に後悔のようなものが混ざっているのに気付いたりもする。

もう少しいろんなことに挑戦できたかも、とか、勇気足らずだったかもしれないとか、やれたことがあったとか、きっと12月というのはそんな月なのかも知れないともおもうが、「慣れていく」それを壊せるくらいの事件、「あっという間」の中に混ざる後悔めいたものを壊せる事件を自分の中で来年はもっと起こせたらとおもう毎年だが、もっともっと自分の中でしかおこしえない事件をと、ファック、今年はなお強くそう思う12月だ、いかがおすごしか。

ブログの通り、またしても宮崎滞在記

今回は宮崎のプラネタリウムにて演劇の合間に2曲ばかし歌わせてもらった。
オムニバス形式になっており、その中の2話「東京12月」「おきざりのブルース」
自分の書いた曲は、書いた瞬間に聞いてくれる人のとこへ旅立つものだなんてよく聞くが、旅した曲が演劇になって帰ってきたような感覚だった。

これを脚本演出したのが、高校の同級生で、その当時やっていた漫才の相方であった本田誠人(劇団ぺテカンの脚本演出家で俳優)。

高校を卒業してお互い東京に出てきて、誠人は演劇、自分はバンドとそれぞれの道を選んだ。これまでも何度か、それぞれのやってることをもって東京にて一つの空間を共作したことはあったが、地元宮崎で、しかも一つの作品として同じ舞台に立つのは高校以来だった。

今回のイベントのキッカケは誠人の奥方であり、役者のいずみちゃんが、宮崎市にあるでっかいプラネタリウムを観て、ここで何かやらかしたいってとこから始まった企画だとか。

これ、発想を形に変えてしまうパワーはすごいもんがある。便利に拍車をかけて、指一つでなんでも情報が得られ、やった気観た気になれる時代に、思いつきを形にする人のパワーは気持ちがいい。やるかやらないかは雲泥の差があることをみせてもらった。
そんな企画に誘ってもらい、船に乗っかった形で、短い期間宮崎市内に滞在した。

上記したように、自分の手を離れた曲達がいろんなドラマを連れてきて、役者のみんながそれを演じている。その合間に自分が歌うのだが、誠人の曲のイメージの主人公が実際そこにいる。その目の前で歌うのだから不思議な感じがしておもしろかった。こういうことが面白いのは、ギターと歌で、演じるほうの心と会話ができてる気になれること。普通に話をするより会話できてる気になれるから不思議だ。


まだ音源になってない「おきざりのブルース」は舞台には誠人と自分だけ、同じくもう一人高校の同胞が撮った地元延岡の写真がプラネタリウムの大天井に浮かびあがる。
その中でうたった。シンプルに3人でそれができたのがよかった。

本番2日前から宮崎市入りし、稽古に参加させてもらったが、やはり畑違いのとこに来るのは新鮮だし、いつもと違った刺激をもらえたりもするからおもしろい。
役者のみなさんの真剣さやら、みんなで一つのものを作り上げいくチームワーク、ポジティブさ。みんなで拾って、みんなで広げてく。少々そのノリに気後れしてしまうこともあったが、自分は自分なりに一員として参加させてもらった。

その雰囲気の真ん中にいるのがその脚本演出の誠人であるが、段取りよく稽古を進めていく様子も気持ちがいい。「はい、じゃ何ページのあそこからやってみましょ、よーいはいっ」とか「じゃ、ここで音が流れましたっはいっ」とか「何々くんあそこはもうちょいあぁやってやってみようか、うんうん」とかとか、自分ならとっくにテンパってイライラさえしてしまいそうな段取りの多さ、時間の無さの中、しかも楽しげに進めていく。

これ脚本、演出なのだからあったり前のことやろうが、おもろいのは、同じようなことを誠人は高校時代からやっているってこと。
授業中にノートに漫才のネタを書いていたり、演劇部でもないのに文化祭などで演劇をかましたり、そん時から脚本演出俳優で、しかも照明や音響さん相手にも的確に指示をだしたりしていた。誰に習うわけでもなくそれが仕事になってるんだから、おもろい。

20年経って、お互いに違う道通って、いろんな経験を経て、変わったこと、成長したこと、なくしたこと、いろいろあるやろうが、相変わらずあんときみたいに、自分らのやってきたことをもって「なんかおもれぇことやったろう」で遊べるのが、なかなかないことやろうなともおもうし、嬉しくもおもう。また、その時の担任の先生が観に来てくれていたのも嬉しかった。

しかしこれ、これから先にもこの日の内容、出会い、空気感はずっと光り続けるだろうなと思える日になったし、誰かの思いつきが色んな人の想いと爆発しあって形になって輝くって素敵やなともおもった。違う畑のみんなと一つの空気つくってますます、自分の道精進せねばとも思わせられた、そんな「星の庭」だった。
うむ、そして前々からおもっていたが、稽古終わりや本番終わりでの酒の席でもよく飲み、人にもよるだろうが、全体的に演劇人はやはり元気でありました、恐るべし。
                              おわり。


P.S.2010年もこの「センチメンタルの馬鹿野郎」に目を通していただきありがとう。
   2011年もどうぞよろしくです。
   
  2011年ライブ!生で会いましょう!!
  静かな心で正月を迎え、覚悟決めて2011年を突っ走りたいとおもいます。                  
    よいお年を!ハバナイ2011                      
                            2010年12月 中尾諭介