2010年12月7日火曜日

Vol.130「宮崎、花火、口蹄疫」の巻

イチョウの葉が街を黄色で包む、道路も黄色でシャッシャと歩く。
やっぱ好きやなぁ秋。 

24日、ワンマン2日前、夜、公園を歩き自分の音を聞く。

自分の呼吸、枯れ葉を踏む音。

それだけが聞こえる冷たい空気の中、確かめられた自分がより浮き彫りになって力が湧いてくる。静けさから湧いてくる力。ゆるぎようのない力を確かめる。そういうことあるねやっぱ。 いかがおすごしか。


と、ブログのほうでもお伝えした宮崎でのことや口蹄疫のことを書こうと思う。


今回は日の影町での花火大会でのライブと、泉谷しげる氏が親分となり主催された口蹄疫義援ライブの二つに出場するべくの帰郷であった。

日の影花火大会前日は名古屋アップセットでライブだった。1月ぶりのアップセット。1月でのライブ後に心に残った感情をキッカケにできた曲をひっさげてのライブであったので、お土産をもってかえった気分にもなった。


話は前後するが、この三日前、日の影町のライブは台風接近のため中止となっていた。
そう、中止となっていたが、もうひとつライブがあるので、どの道翌日には宮崎に向かわなければならず、しかも台風は宮崎を通過しており、名古屋に接近とのこと。

メンバーとは名古屋で別れて自分はそのまま名古屋滞在。
翌日の名古屋からの飛行機が飛ぶのかが心配であったが、その日の夜は名古屋の音楽番組の司会をやっていた時のテレビ局のプロデューサーと痛飲。
飛行機も飛ばない可能性大であったし、翌日のライブも中止となったので、こうなったらと開き直り、午前3時あたりまで痛飲。

ホテルについて、靴をはいたまま睡眠。
起床し時計をみたら、飛行機離陸まで30分。

ここは一つ、台風さん飛行機飛ばさないで、もしくは遅らせておいてくれと飛行機会社に電話するも、「通常通り運航しております」とのこと(その頃台風は東京方面へ)。

キャンセルをお願いし、新幹線で宮崎へ向かうことに。今年はよく電車に乗るなぁとおもいながら、新幹線で九州へ向かっていると、日の影花火大会の実行委員 のS氏より着電、「花火大会は中止になったけど、実行委員に向けて小さいライブをやってくれんやろか」とのこと。一瞬昨夜の痛飲が効いており、こりゃ使い もんにならんやろうともおもったが、やってやれないことはない、やっちゃえやっちゃえと逆におもしろくなってきてやることに。

夕方延岡につき、迎えにきてもらったSさんと車中で話す。
S氏はこの突発的なライブ遂行の主犯であり、イタズラ小僧が悪さをする時のワクワクが滲み出ていた。

口蹄疫のことについてもきいてみた。
日の影町は口蹄疫が発見された場所からは遠く、被害はそれほどでもないのだろうとおもっていたのだが、それはまったくもって浅はかな推測で、それまでイタ ズラ小僧のようだったS氏が、ゆっくりと身のまわりの被害状況を教えてくれた。

口蹄疫はこなかったが、あの期間酪農家は市場が閉鎖されており、牛や豚を市場に出すことができない。毎日何万円という餌代だけが出費されていく。それが何 カ月も続き、いつ終わるかもわからない、しかも感染が広まるかもしれない不安の中での生活。「酪農をやっているもんに対して、なんて声をかければいいかわ からんかった」というS氏の言葉が、その被害を表していた。

僕が口蹄疫を知ったのは遅かった。宮崎の友達と電話で話したとき「今大変なっちゃが、知らんとけ」「え? 何それ」。

その時聞いた話でも、あまりピンとこなかった。
ある時東京のそば屋にて隣りの人が読んでいた新聞に口蹄疫のことが書いてあった。
こちら側に、太文字で「戦争のようだ」と酪農家の方の言葉が書いてあった。

そんなにかとおもい読んだ。牛や豚が殺され、掘った穴に埋められていく。感染していない牛や豚も、感染区域となったら殺され埋められていく。全身白い服を きた人達が消毒をしながら作業にあたる。牛や豚を手放さなくてはならない酪農家や、作業をしていた人達の悲惨さが「戦争のようだ」という言葉で伝わる。ま た作業にあたる人へのカウンセリングも必要であったとのことだった。

しかし東京にいて、街はいつものように時がながれており、同じ国で「戦争のようだ」ということがおこっている国だとはおもえない毎日だった。そんな口蹄疫 がまだ広がっているまっただ中の頃、銀座を歩いていると「宮崎を応援します」と、あるレストランが看板を出しており、宮崎牛などのフェアを開催していた。 感動もしたが、我が故郷であるのに何もしていない、意識の薄い自分を恥ずかしくもおもった。

またある時は肉巻屋さんで店員のお兄さんに「口蹄疫の影響ってやっぱある?」なんて聞くと、「ありますよ、なるべく騒がないでほしいです」なんて意見もあった。
確かに、何事もないかのような東京の流れの中で、何やら宮崎の牛が疫病にかかってるらしいなんてニュースが流れれば、イメージだけで手がでなくなるのもわかる。
さらに、野菜なども宮崎の名があるだけで、敬遠されていたときいた。


8月には大同窓会と兄弟ライブの二つのイベントが宮崎の延岡で開催される予定だった。感染が広まるにつれどちらのイベントも中止の可能性があるとのこと だった。それが日に日に本当に中止かもしれないとなった。その頃には宮崎のたくさんのイベントが中止になっていた。

弟ウコカとも口蹄疫のことを話し合い曲をつくった。

なんとかイベントは中止にならずにすんだ。

8月宮崎に帰ると、検問のように車の消毒がおこなわれていた。

殺された牛や豚をみていないし、空っぽの牛舎もみていないが、国道を通った時ニオイがした。殺された豚、牛のものだと聞いた。

口蹄疫のことをはじめて知った時、東京にいて、「でもゆくゆくはどっちみち殺すんでしょ」っておもったりもした。でもそれとこれとは違う。まったく、全然違いすぎると今はわかった。

目に見えないものであるし、その被害も様々で、いろんな立場によって受ける被害も様々だとおもう。まだまだ自分は知らないことばかりやろう。

おもうのは感染が止まらなかったらどうなっていたか。
例えば東京まできてやっとみんな気付くのか。
違う県やったらこんなに感じたやろうか。
メシを食うってこと。



口蹄疫のことで宮崎から、被害のことや命のことが、ゆっくり語り継がれて広まっていくんだとおもう。
上手くいえないが、イベントに参加し、感染を宮崎だけにとどめてくれたことを、本当は全国の人がもう少し、知るだけでも知ってもらいたいなとおもったりもした。
県外に住んでるもんとしては、「頑張ろうや宮崎!」の前に一回「ありがとう宮崎」や。