2009年9月8日火曜日

Vol.115「夕焼けの秋」の巻


 夏が雲に隠れてた分か、秋が少々暑く感じる、あ~ついあ~き、あ~ついあ~き、あ~ついあ~き-み~つけた-ってな今日この頃、いかがおすごしか。

 秋はベトベトしてなくていい。透き通っていて、遠くまで見えるし、色もくっきり見える。晴れたり曇ったり、オレンジだったり、青かったり、白かったり、紫だったり、暗かったりで留まらず、動いていて、空は心みたいだなぁとおもうけど、どんな色、形にしてもそれがくっきり見えるから、やっぱり秋が好き。
 夕焼けがきれいにみえるのも、いい。

 夕焼けって、みちゃう。夕焼けってふるさとな感じがする。夕焼けって寂しい気持ちや悲しい気持ちが燃えてるみたいな感じになる。昔のドラマの主人公がバカヤロウ!と夕焼けに叫ぶ気持ちがわからなくもない(ってそんなドラマ見たことないけど)。

 ふるさとって僕には何箇所かある。細かく言えば、一度住んだらその街の雰囲気が故郷感覚になる。
 歌を聞いて、その歌を聞いていたころの景色や匂いが蘇るのも故郷感覚だとおもう。

 体がどっか、その瞬間に帰る感じになる。



 こないだ、ぽつりとあいた休日に、どこか遠くの方に電車に乗って行きたくなり、千葉県の我孫子市に行った。

 ここは自分が幼稚園時代を過ごした場所で、7~8年おきに、なんでか来たくなる場所だ。

 なんもなく、錆びれた小さい湖北という町。

 今の自分より若い父と母が、幼稚園の僕を育ててくれた町。

 この道をどんな気持ちで二人は歩いていたんだろかとか、まだオモチャ屋さんあんだとか、何を探してんだかぷらぷら歩く。

 蕎麦屋にはいり、店主にこの町の歴史を聞いては、なんだか感慨深くなる。

 ド-ナツ化現象で、都心から外れた緑ばっかりの湖北に団地が建ち並び、一時的に人口が増え、町が賑わったことを聞き、店主の話と、自分の記憶の景色を重ねて、その記憶が深くなるのを感じたりした。

 あの賑やかな団地の催し物や商店街の人達、その中にあった我が家族の小さな暮らし。
 子供達は大きくなるとこの町をでていくものだから人口は減り、今では町がかなり静まりかえっていることも聞いた。

 その静けさがまた、自分がいなくなってから町もずっと止まってたんじゃないかと思わせ、次から次へ、ここでカブトムシひろったなとか、蝶がサナギから大人になるのをずっとみていたなとか、記憶が蘇る。

 少々カッコ悪いが、心が泣けてくる。

 随分時間がたったんだなあとか、わかりきったことだけど、もうもどれないんだなあとか、実感してくる。

 いくしかないとおもう。
が、あの頃の誰かに会えそうな気がして離れられない。

 一人、一日ぷらぶらと歩いた。

 夕焼けに続く道があって、幼稚園の頃とおなじように、そこから夕焼けを見て、かえった。

 延岡でもアメリカでも我孫子でも、東京でも、どこにいても、僕に印象的な夕焼けをみせてくれ、ふるさとってのは夕焼けのことなんじゃないかとおもわせるくらいだ。

 振り返るってのはなんかかっこわりいが、「もどる場所があるから人は旅をする」って言葉があるように、また次にいくために夕焼けをこの町まで見に来てよかったとおもった。

 錆びれていて、ものがなしい町だけど、湖北って町も僕には大事な町だ。
 どこにいても夕焼けに帰る、そんでまた旅にでる。透き通る夕焼け、どこまでも見える。2009年、秋だ。