2008年4月30日水曜日

Vol.99「と言えば言えばで猿渡り、春雨から柳原さん」の巻

 春がきて雨ばっか降って、濡れて歩いてみても気持ちよく、「これが春雨ってやつかー」と納得する。「はるさめ」って食べ物に「春雨」と名付けた人はポエマーやなぁー、素敵やなぁーと思う。かといってあの透明な味のない食べ物は、あれば食べるけど、なくてもいいんじゃないかと思ってしまいます。同じく、うどんに入ってるカマボコなどにも同じことを思ったりします。あれば食べるけど。どうでもいっか、いかがおすごしか。

 はるさめと言えば麺的な食べ物やけど、子供の頃、母親に「僕がおなかの中におった頃、そば食ったやろー、覚えちょるとよねー、雨が降ってきたっておもったもん」なんていうウソをついたことがあった。記憶の中のはじめてのウソ。おもろいと思ったのだろう、自信満々のウソやった。今でもそんなイメージがある。

 おなかの中と言えば、こないだ夜の山手通りに浮かぶ丸い月をみた。
 生まれた所や、育った場所を忘れたら、もしも行く先を何も失ってしまったら、この月と太陽の子供になればいいとおもった。太陽と月がいてくれればおっけいなのに、神様ってのはなぜいるのかとおもう。
 
 神様と言えば宗教。

 宗教と言えば、上京した頃、モルモン教の勧誘のピスタチオのヘルメットかぶった外国の人が家に来た。部屋にあげて話を聞いた。僕はこういう人等の話を聞くのが好きやった。自分の信じてるもんと共鳴したり、異議をかわしたりして、自分を確かめてたのかもしれない。僕には出てきたばっかりの故郷があったし、友達がいた。畑の真ん中や路上でフォークギターを鳴らせば、そこにすべてがあるように思えたし、もっとなんかあるはずやと思ってたから、その人達が手にしていた分厚い本がカンニングペーパーのようにみえた。神様は人の数だけいるもんやと思ってるから、なぞなぞは自分で解いたほうがおもろいとおもってる。

 信じるもんと言えば、そのころよく本屋さんに行ってた。みつけたのが、「リトルトリー」。インディアンの小説で、この連載でも何度も書いてるけど、感動した。もうひとつ、高倉健の「あなたに褒められたくて」って本。高倉健が大好きってわけではなかったが、その本に感動した。そのふたつの本は、読み終わってもずっとずっと僕の中に流れ続けてるように思う。宗教でもヤクザでもなく、強いものを探してた時やった。心深く、優しくて広かった。何がどうなっていくのかわからない旅のはじまりに、こう生きれたらと思わせてくれた本や。

 感動したと言えば、先日、下北沢にてフォークソング部の集まりがあり、遅れて出席し、終電がすぎても飲んだ。ではそろそろ帰りますかとなって、店を出て中山加奈子さんと手を振り別れ、元たまの柳原さんと二人になった。「どうやって帰るんすか」と聞くと、「歩いて」と言う。「家どこなんすか」と聞くと、「吉祥寺の向こう」と言う。「へー、って吉祥寺って遠すぎやないですかバイクでも遠いのに! しかもその向こうって!」「いや、俺いっつもそうだよ」だって。信じられない僕は「またまたー、途中でタクシーに乗るんでしょ?」なんて疑ってかかり「歩いてみれば歩けるもんだよ」と言って僕らは井の頭通りで別れたが、僕はホントにホントなのか、姿が見えなくなるまで柳原さんを見送った。終電のなくなった深夜、柳原さんは見えなくなり、僕は帰って寝た。
 起きると、柳原さんからメールで「○○時○○分自宅に到着しました。また飲みましょう」と報告があった。下北から吉祥寺の距離は、飲んだ帰りに歩く距離じゃない。「さぁ! 今日はウォーキングデイだ!」と覚悟して一日のイベントとしても歩きたくない距離を、飲んだ帰りにふらっとあたり前のように、歩いて帰る柳原さん。

 時々、柳原さんの歌が頭に流れることがある。柳原さんは携帯をもってない。柳原さんはミュージシャンのためのミュージシャンだとおもう時がある。自分の歩く道と足をもってる人。流されてなくて、近道できない人。遠回りしながらも、自分の時間の流れを作ってる人に東京インディアンを感じ、感動し、おやじの背中ではないが、井の頭通りのあの背中が僕に何かを教えてくれてるように勝手におもっているこの頃だ。